以下は、「新しい経営学の構築」を目指して、現在研究プロポーザルをまとめている段階である。
本研究の目的
経営学の根源的な課題の一つに、サイエンスとして得られた知が、直接的にビジネスにおいて十分に活用されていない、ということがある。経営学は、実務家の認識として、マクロな戦略立案や組織マネジメントなど計画の段階で活用するものであると、限定的に捉えられることが多い。どのような研究であれば、より実務家に活用してもらえるのか。本研究は、アカデミアと実務家がチームを組むことで「フィールド実験」を活用し、より実践的な知を創出するモデルを創出することを目的としている。
世界の経営学の進展は、3段階に捉えることができる。20世紀の経営学は、「代表的な事例を観察することで、汎用的な理論を構築する」学問であった。それが20世紀終盤のコンピュテーショナル・パワーの向上とインターネットの普及により、「多数の事例を集めた観察データを生成することで、相関関係から理論を構築する」学問へと発展した。そして、これからの経営学では、「ビジネス・フィールドの中で、変数を操作することでデータを生成し、因果関係から理論を構築する」学問が主流になると予測される。
伝統的な経営学では、企業活動に直接的に介入することが難しいために、事例の観察を中心とした定性研究・定量研究に留まってきた。この手法では、企業経営に関わるどの要素がどのアウトカムを創出しているのか、厳密な因果関係の推論が困難であった。真の因果関係の理解は、経営に関する意思決定の質を大きく向上させる。因果関係は、ビジネスの実務家がどう行動すれば良いか、具体的なアクションを提示するからである。
因果関係の推論のための有効な手法として、現在社会科学全般で活用されている「フィールド実験」が、経営学でも重要な役割を果たすようになりつつある。フィールド実験は、社会科学における内生性に関する課題を「ランダム化」によって解決する。ランダム化は、観測可能・不可能を問わず、他の全ての要因を制御することによって、研究者の関心の持つ独立変数 (経営における介入など)が、アウトカム変数(業績など)の直接の要因であることをエビデンスとして示す。ランダム化による処置割り当てを前提としたフィールド実験は、アカデミアの世界では古くから用いられている手法であるが、経営学において普及しているとは言い難い。
フィールド実験は、政府や非営利組織などでは既に積極的に活用されている。政府や非営利組織は、ステイクホルダーに対して活動のインパクトを示さなくてはならず、フィールド実験のコストをかけてでも、効果測定を行うことが重要であるからである。一方で、営利企業での利用は限定的であり、その理由は実務家にとってビジネスの実践の場にフィールド実験を持ち込むことは、得られる便益に対してのコストが高いと考えるからである。従って、経営学にフィールド実験を持ち込むためには、実務家に対して価値を示さなくてはならない。
現在、ビジネスの実務では、デジタル企業におけるWebサイトの効果測定のために「A/Bテスト」が活用されている。「A/Bテスト」は比較的ミクロな意思決定にのみ使われており、経営の重要な意思決定には使われていない。しかしながらフィールド実験は、DEI(多様性、公平性、包括性)、従業員のインセンティブ制度、組織デザイン、職場環境のデザイン、社内ルール、従業員のウェルネスなど、経営の多様な課題に応用可能であり、多様な研究領域において有効である。
本研究の目的は、企業がフィールド実験に消極的な要因を明らかにし、その課題を解決することで、経営学者と企業の実務担当者が相互に協力するための土台を築くことである。
本研究の方法
本研究では、1) 企業がフィールド実験を活用するためにはどのような課題があるのか、という探索的研究と、2) 米国の事例などを参考にしながら、導入のための仕組みを設計する実装型研究、の2段階により構成される。
探索的研究: フィールド実験の阻害要因を探索することを目的に、インタビュー調査及びサーベイ実験を実施し、日米比較を行う。具体的には、実務家のサイエンス・リテラシー、企業における課題のニーズ、組織内での意思決定のメカニズム、便益への認識に関する指標を測定する。
実装型研究: フィールド実験の実践において、研究者と企業の実務家のインセンティブや使用する言語が異なり、なかなかマッチングが発生しない。米国では、この課題を解決するためにシカゴ大学の先導的なプログラム「SIFE (Summer Institute on Field Experiments)」が果たした役割が大きい。SIFEでは、研究者側と企業担当者側へそれぞれの教育プログラムを作り、具体的なテーマ設定のサポートを行う。本研究では、このプログラムに実際に携わったMichael Price教授の協力のもと、日本における研究者と企業担当者が、フィールド実験を実施するためのチームとしてマッチングするプログラムを構築する。特に研究者側、企業担当者側双方が交流できるようなコミュニティの構築がキーであると考えられる。このようなマッチングの知見を蓄積し、ケース事例としてまとめ、成功要因を分析する。
研究構想に至った背景と経緯
研究提案者は早稲田大学ビジネススクール(WBS)着任後、アラバマ大学Michael Price教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校Eric Floyd准教授と共同で、日本企業におけるフィールド実験の普及・啓蒙活動を行ってきた。その結果、三菱電機や清水建設との共同研究により、具体的な実績を上げつつある。しかしながら、フィールド実験は、企業の意思決定の質を向上させるというメリットが明確であるにも関わらず、多くの企業はその導入に消極的であった。研究提案者は、これは日本企業の固有の問題であり、米国ではもっと先進的であると考えていた。
しなしながら研究提案者がFloyd准教授と議論する中で、「日本企業がフィールド実験に消極的なのではなく、米国企業も消極的なのは同じ。むしろ、日本の方がフィールド実験を実現する確率が高いと思う。もっと日本の強みを認識した方が良い。」という指摘を得た。
東京は世界で最も企業が集積している地域の一つである。そして、アカデミアの研究者と企業の実務家の距離が近いコミュニティが多数存在している。具体的には高校や大学の同窓生を辿れば、研究者は多くの企業と繋がりを得ることができる。またビジネススクールは、東京にいる多数の大手企業から学生を受け入れている。このように、アカデミアと企業の実務家が近い環境は、米国の大学には存在していない。
当初は日本が米国の研究スタイルを追随する形でフィールド実験を捉えていたが、むしろ日本の方が米国よりも有利な環境にあり、日本起点で世界の経営学の新しい潮流を生み出すことができると確信するに至った。
挑戦的研究としての意義・可能性
本研究の挑戦的研究(萌芽)としての意義・可能性は、3つの観点から示すことができる。
第一に、経営学の研究手法の新たなパラダイムを構築する、という野心的な視点である。現時点で、フィールド実験が経営学の未来にとって大切な手法であると考える経営学者は少ない。このような環境下で研究をスタートすることは、挑戦的研究(萌芽)に相応しい。
第二に、経営学を実務家にとって役に学問にするために、研究と社会実装を同時に行う、という研究スタイルの確立を目指していることである。現時点で、実務家にそのニーズが明確にあるわけではない。その中でニーズを創出していく、という視点は挑戦的研究(萌芽)に相応しい。
第三に、経営学を米国からの輸入学問ではなく、日本起点でバージョンアップしていくという視点である。東京のアカデミアと企業のエコシステムの優位性を理解している研究者はまだまだ少ない。しかしながら、日本企業との研究が魅力的であることは、既に複数の研究者が日本企業と連携をして一緒に研究していることからも明らかである。このような日本の優位性を生かした研究体制の構築は、挑戦的研究(萌芽)に相応しい。
この研究を遂行することにより、日本起点の新たな経営学のパラダイムを構築することができる。